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MORSE-モールス‐とぼくのエリ

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MORSE‐モールス‐
(『ぼくのエリ』のハリウッドリメイク版)
を見て改めて『ぼくのエリ』の完成度の高さに気付かされた。

構成
キャラクター
音楽
セリフひとつ取ってもすごく丁寧に作られていて
『ぼくのエリ』は、翻訳も吹き替えも非常に良い。

『モールス』も、別にものすごく悪いわけでは無いけれど、普通の映画どまりになってしまっていて
『ぼくのエリ』があまりに素晴らしいので、その前ではどうしても霞んでしまう。

『モールス』吸血鬼の動きが、より生物っぽくなっていたのは良かったけれど
それが逆に食人鬼っぽくなってしまっていたというか低俗な化物っぽくなってしまったところは残念。
実にアメリカっぽくて、アメリカの時代背景感とか宗教感
(特に今回は母親が熱心な狂信者という設定がほのめかされている)
があるように思うのですが
私には当然分かるわけも無く・・・むしろ本筋的にはどうでもよく。

結局ハリウッドはどうしても『動』の方に力が向いている気がして
『静』で魅せると言う事は向いてないのだと思う・・・

・・・以下、個人的感想、『モールス』と『ぼくのエリ』について(内容を含む)・・・
『ぼくのエリ』と『モールス』は大筋では同じなのだけれどいくつか違いがあって、それが大きな違いを生みだしていたりする。

単純にすると
『ぼくのエリ』が、主人公であるオスカーとエリ、その周りの人たち、それぞれを丁寧に描いていて一つの街の出来事が映画になっているとしたら
『モールス』は、主人公であるオーウェンとアビーに重きが置かれていて、周りの人たちは一種の背景程度でしかない。

特に、キャラクターに関して言えば、
『ぼくのエリ』は、とにかくキャラクターが立っていて
エリの吸血鬼感。どこか浮世離れした人ならざる者の雰囲気。
オスカーの、儚くて脆い氷のような、ナイフの様な雰囲気。
エリの保護者は、うっかりと言うかそそっかしいというか、頼りない。
(血液を忘れてくるのは、彼の抜けているところを示しているし、彼はその事で多くを語らない。おそらく昔から抜けているのだと思う)
いじめっ子は、
リーダー格の子
二番目のヒョロイけど背の高い、少しだけ躊躇いも魅せる子
その二人について回る、本当は、臆病そうな小さくてまるい子
リーダーの兄は、行動は異常だけど兄弟のやり取りで弟に対する、愛情を持っていて弟も兄を慕っている。そんな印象を受ける。
体格のいい、強くて優しそうな先生、授業を担当している女の先生
優しい母親、酒癖は悪いけれど良い父親、変わった父の友達
ヴィルギニア、ラッケ、ヨッケ、イエースタ等の地元の人
それぞれが活きていて、世界を広く感じさせる。

例えば、
・木の枝を使ったイジメのシーンでは、いじめっ子達それぞれの性格の違いが現れているし
・怪我を心配する母親が頭を撫でるところや、歯磨きをするシーンは、母親の愛情を感じさせる。
(自分から、転んだと応える点はオスカーの母親にいじめられているのを隠そうとしているのが良い。『モールス』ではいじめっ子にそう言えと指示されていて、その印象が弱まってしまっている。)
・好きな父親と遊ぶシーンによって父親の愛情が示され、父の友人が訪ねて来ることで、父親の問題点、離婚の原因も、うかがう事が出来る。
・「氷のあんなに気をつけろよ」「氷の穴よ」というアヴィラ先生と女の先生の何気ないやりとりがキャラクターに人間味を与えている。

『モールス』は、
オーウェンもアビーもどちらかと言うと、普通の子っぽい。
アビーは、吸血衝動が強い時は吸血鬼と言うよりも悪魔のような描かれ方である。
アビーの協力者はアビーの為に人を殺す、やり手なんだかどこか抜けているんだか、よくわからない男。
(けして、頼りない感じではないのだけれど、そこか抜けてると言うか、少し変だと思う。マスクまで付けてるけど、車で待ち伏せるって・・・血液を持ち帰れなかったのはうっかりではないし、その後のセリフから、昔は結構やり手の殺人者だったような感じがする。これは、『ぼくのエリ』と『モールス』の男の立場の違いを表しているようにも思う)
いじめっ子の個性は、ほとんど損なわれ、いじめっていうシステムみたいで
やつあたり気味のリーダー格
ほとんど変わらない体格の取り巻き二人
兄は、弟とあまり仲が良くないようなやり取り。なんとなく全員の体格が良すぎて
未熟な子供たちのイジメという印象がない。
先生は、一人の大人という印象でしかなく、極端に体格がいいということも無い。
地域の住人も、トレーニングが好きな男、犬を飼っている女とその恋人。
母親(熱心な宗教信者であり、それが両親が離婚しようとしている原因である事が少しだけ語られる)
声だけ出演の父親(息子が電話で泣いていても話が終われば自分から電話を切ってしまう・・・)。
一人で捜査している警官。
皆ただの舞台装置にすぎず。
登場人物も、環境も、全てオーウェンとアビーに焦点が合ってしまっていて、全てが狭く感じてしまう。住んでいる建物。プール等も狭く感じられ世界が広がりを持っていない。


冒頭も異なり
『ぼくのエリ』は、静かに始まる。
とても静かに、暗い画面から、ふりゆく雪に変わり、主人公の台詞
「豚みたいになけ、ないてみろ」
引っ越してくるエリは靴を履いているし
オスカーは結構大きくて、人も殺せそうな刃物自前のナイフを持っている。

『モールス』は、男が病院に搬送されるところから始まる。つまり物語中盤の出来事から過去にさかのぼる。
冒頭ではオーウェンは自分のナイフを持っておらず。
包丁を持って鏡に向かい。変なマスク付けて
「よぉ、お穣ちゃん、怖いのか?」
いじめっ子も「お穣ちゃん」
すごい男尊女卑社会っぽい。
そしてオーウェンが手にいれるナイフは、どうも頼りない。ペーパーナイフみたいな小さなナイフ。

オスカーの「豚みたいになけ」
オーウェンの「よぉ、お穣ちゃん、怖いのか?」
もう、『モールス』の方は、婦女暴行犯みたい・・・。
いじめっ子も、同じセリフを使うんですが、やっぱりお穣ちゃんっていうのはなんか変・・・

オスカーとオーウェンは、そのキャラクターに大きな違いがあって
オスカーは、自前の刃物を持っていて、殺人事件などの記事を収集していて
その手の情報に詳しく、少し、サディスティックな一面もある。
対してオーウェンは、そう言った面を持っていない。
彼は、どちらかと言うと受け身なんだと思う。覗いてしまう癖のようなものはあるけれど
小さなナイフをふっても、彼は、結局甘さというか優しさを捨てられない。
また、アビーはエリよりも気が強い感じがする。

『ぼくのエリ』でオスカーは、エリが引っ越してきた事は知っていても、どの部屋に引っ越してきたかは知らないから
エリと、オスカーの間では
エリの「ここ、このジャングルジムに住んでる。」
という冗談が成立する。
そして確かに、ところどころに壁などもあって、住めそうなジャングルジムである。
基本的にエリは靴を履いている。

オーウェンは、アビーがどこに越してきたか見ていたので知っている。
アビーは、引越し時とジャングルジムのシーンでは共に素足である。
寒さを感じないからという理由ではあるが、服はしっかりと着ているのに足だけ素足と言うのは違和感を覚える。

エリと、オスカーのやり取りは、アビーとオーウェンに比べてけして多くは無い。
けれど、その時その時の二人の微妙な距離感を表しているし、実に自然なやりとりになっている。
ちなみに、オスカーがエリの名前を聞いた時の
「エリ?」という疑問は、エリという名前が、向こうの国では男性名である事に由来しているのだと思う。

一方のアビーは『モールス』では吸血鬼の性別は無いという設定らしいので、名前にも特に意味は無く
オーウェンも驚いたりしない。ただ、それなら吸血衝動中の声が低くならなくてもよかったんじゃないかと
もうね。あの、おねぇの人が、怒ったり、驚いた時に声が地声になった時のような感じがして、むしろエリよりも男の娘っぽい・・・ついでに、『ぼくのエリ』の日本版でのモザイク覗きシーン自体が『モールス』には存在しない。ただ覗きはする。

『ぼくのエリ』で男の顔の半分が酷く焼けただれた姿が、悲惨さを増してリアルなのに対し
『モールス』では全面が焼けただれていてどこかお面をつけているように感じてしまったり、
いじめっ子に反抗するシーンでも
『ぼくのエリ』でオスカーが手にした棒は、細く、ある程度軽そうで、しなるので鞭のような効果を生み自然。
オスカーがいじめっ子にけがをさせた事には女の先生が駆け付け、アヴィラ先生は、もう一方の悲鳴に駆けつけるのに対し
『モールス』の棒は太く
もはや、バールのような何かというか鈍器の類で、いじめっ子が怪我をして、目の前でけが人が出たのに、先生が一人な為、皆がもう一方の悲鳴の方へ集まるという違和感ある光景が展開されたり、
『ぼくのエリ』でのいじめっ子の兄と弟のやり取りが戯れに近く、仲が良い事がうかがえるのに対して『モールス』では、兄と弟はあまり仲が良くなさそうな感じで、後に弟の為に主人公に仕返しをするというのが理由づけとして弱く見えたり、
最後のプールにおいても『ぼくのエリ』では、兄は自前のナイフを持っているし、不安になったいじめっ子達は、それぞれの反応のを示すのに対し、『モールス』ではいじめっ子達は皆同じような反応で突っ立っているだけであったり、
『ぼくのエリ』で、友人と恋人をうしないエリを殺そうとするラッケが、ヴィルギニアが太陽光で燃えたところから、エリの住居にたどりつき、彼の行動にはそれまでの展開の中でのきちんとした理由があるのに対して
『モールス』では、警察の男が、物音一つで、即ドアをけり破って拳銃を構えながら踏み入ってくると言うアメリカ仕様・・・
犠牲者の、財布や、身分証が見つかった時点で、応援を呼ぶとか、するべきじゃないかと・・・
連続殺人の捜査なのに一人で捜索するとか、アメリカの警察は人手不足なのかと・・・

演出面でも
ラッケを殺した後別れを予感させる時
エリの血にまみれた口づけ(エリは、この時しかキスをせず。それがキスをより特別なものにしている。)
や、飾られている車の扉を閉めるオスカー、空っぽになったエリの部屋等が印象深く。
プールで、主人公を助けだすシーンも『ぼくのエリ』の方が上手く出来ていて
オスカーは、目をつぶっていて、状況の変化には気づかない。
明るいプールが、広さを感じさせ、引き揚げられたオスカーは、初めて目をあけ、エリの顔を見て微笑む。
『モースル』では、暗くなったプールで、主人公は目を開けていて
惨劇を目撃し、自分でプールから顔を出す。残酷な光景は多いが、狭い範囲で起きていて
『ぼくのエリ』よりも残る印象度は低い。アビーの顔は映らない。

他にも『ぼくのエリ』では、招かれなければ入れないというルールが大切にされていて
エリは病院の入り口でも、許可を得なければ入らず
特に、寝ているオスカーが許可してから開く窓は、招かれなければ入れないエリの境界を強く印象付ける。
ヴィルギニアも招かれなければ入ってこない。
『モールス』では、基本的にルールは守られるが、病院の入り口はそのやりとりが無く
主人公の部屋の窓をアビーが開けてから入ってもいい?と尋ねるやりとりは『ぼくのエリ』に比べると残念。

この寝ている主人公の部屋を訪れるシーンでは
エリの「ごめん 気味が悪いよね。」
に対するオスカーの「そんなことないよ」

この、「ごめん、気味が悪いよね」
このセリフが、もう完璧で、このセリフによって、エリが外から来たから体が冷たい。
ではなく、元々エリ(吸血鬼)の体温が低いという印象を与える事に成功している。
もう、この翻訳した人と言うか、日本語化した人のセンスが素晴らしい!。身もだえするぐらい良い。

『モールス』では、「気持ち悪い?」字幕で「イヤかしら?」
これでは、外からきて冷たいぐらいの印象になってしまう
『ぼくのエリ』のセリフ(翻訳?)は特に秀逸さが目立つ。

『ぼくのエリ』
飴玉を吐いてしまうシーン
「ごめんね」
は、吹き替えの声優さんの上手さを感じるし、その後
エリ「もし女の子じゃなくても好きだと思う?」
オスカー「だと思うよ」「何故そんな事聞くの?」
のやりとりもとても自然で、これ以外ないと思うぐらいである。
対して『モールス』では
アビー「私が女の子じゃなくても?」
オーウェン「どういうこと?」「たぶん好きでいる」
である。「たぶん好きでいる」よりも、「だと思うよ」の素晴らしさ、たぶん好きと言うと、少し弱い。
だと思うよ、というのは少しだけ疑問が入っているけれど、それは、どうしてそんな事を言うのだろう
という疑問を内包しているからであるように思え、短い言葉で変わらないという事をより強く感じさせるいいセリフである。

また『ぼくのエリ』においての、エリの書きおき
「バスルームにいるから開けないで、今夜会える? 大好きだよエリ」は
『モールス』の「今夜また会いたい?」或いは「今夜も一緒に遊ぶ?」
に比べると、詩的ですらある。
原文が、私には理解できないので、翻訳の違いではないかもしれないけれど
翻訳の違いではないとすると、エリとアビーの違いであるように思う
エリが、オスカーに自分から会いたいという気持ち、エリがオスカーを好きだという気持ちに対して
アビーは、少し距離を置いている感じ、会いたいなら会うよ?という
このあたりは、エリとアビーの行動理由の違いだと考えるとしっくりくる。

書きおきに関して言えばもうひとつの方でも
『ぼくのエリ』でエリからのメッセージは、読みあげたりせずに、字幕で表示され。
「ここを去って生き延びるか、留まって死を迎えるか 君のエリ」
が全編を通した意味にも通じるけれど、現在のオスカーの状態にも似ているのに対して
『モールス』ではオーウェンが読みあげるし、授業で、ロミオとジュリエットをやっているからそれを知ったアビーが「去って生き延びるか、留まって死ぬか」という言葉を使用したという演出(説明)になっていて、これはむしろ元が提示されている事で一種の戯れのように感じ、印象が弱くなってしまった気がする。

『ぼくのエリ』のやりとりは、常に必要最低限であり、それ故に奥深い。
動作においても、オスカーの血を見たエリは、驚いて後ずさる等丁寧に表現される。

オスカーがエリの部屋を訪ねる時
オスカーは黙ってエリの部屋に入り、
エリは、内扉をしめる
扉が二人の吸血鬼と人との壁のように感じる。
「君は死んでるの?」
「ううん(否定)
「君は死んでるの?」この言葉は、前の「ごめん、気味が悪いよね」と繋がっていて
体温が極端に低いから(身体が生きていないのではないか)死んでいるの?という事なのだと思う、これがまたすごくいい。
「僕帰りたいんだけど」
というオスカーのそれはおびえではなくて怒り、命令に近い。

オーウェンはアビーの部屋を訪ねる時に、「入っていい?」と聞いている。
これはむしろ吸血鬼のルールを安っぽくしてしまったように思う。
入ってもいい?という言葉は吸血鬼だけが使うことでそれが、吸血鬼と、人の違いを示す大切なルールになっているのにオーウェンがそれを使ってしまっては、吸血鬼と人、二つの違いが、半端に近づいてしまう・・・。
アビーの部屋で協力者の男が少年だった時代の写真を見つけ帰ろうとするオーウェンはおびえている。
これはオスカーとオーウェンの性格の違い、エリとオスカー、アビーとオーウェンの関係性の違いであるように思う。

次に、エリが、オスカーの部屋を訪ねた時も
入って見ろよと言わんばかりのオスカーの態度が、彼の意地悪な所というかサディスティックな面を表している。
制約を破ったシーンで、エリはオスカーをじっと見つめカメラは背後に回る。
血が白いシャツに滲み始めその後、額から流れた血でオスカーは状況を理解する。
このエリの背面、白いシャツから血が滲み始める演出がまた素晴らしくて
観客は、オスカーよりも先に状況を理解する。白いシャツと赤い血のコントラストが素敵。

『モールス』では招き入れるオーウェンは言わなければどうなるのか?という疑問程度として、入っていいと言わない。
アビーはこっちを向いていてそのまま額から血が流れ始める
服の色と、血の色に強い差がなく、血を流すアビーの印象はエリのそれよりも薄れてしまっている。
「入っていいって言わなかったら死んじゃってた?」
「言ってくれると思った。」
他のシーンの「生きて行くのに血が必要なの」「パズルが好きなの」等も合わせ『モールス』は不要な言葉が多い。

オスカーは、自分の一種意地悪な行動がその結果を招いたという事で、より「入っていいよ」が切迫したものになっているし
その後、血にまみれたエリがオスカーに向かって、自分を理解してほしいと願うシーンがとても盛り上がる。
ここでは、エリが、誰かを殺してでも生きていたい。それが生きてゆくという事だと考えていて、オスカーにも理解してもらいたいという事が強く伝わる。
『ぼくのエリ』には、人の枠を抜けてまで生きようとするエリと人のままで死んだヴィルギニアという対の構図があって、
吸血鬼として生き続けるかどうかは、個人の意思である事をうかがわせ、人を殺してでも生きていたいか?と言う事を吸血鬼になった個人それぞれに問いかけている。
しかし『モールス』では、設定で吸血衝動がより強化されているようで、吸血鬼になるとその衝動で血を自動的に求めてしまっている。そして作中、吸血鬼になった人間は、偶然によって死亡炎上する。それでは、人を殺してでも生きていたいか?という問題提起は発生しない。アビーは、吸血鬼だから生きているのであってそこに葛藤は無い。
故に、アビーからは、誰かを殺しても生きて行きたい。それが生きるって事。と言う生への強い想いは感じられない。

また、協力者である男が、以前はオーウェンと同じように少年であったという描写(設定)は、ホラー演出という意味では意味があるのかもしれないが、アビーの好きという感情が一時的なものである事や協力者を必要としている為に少年を利用しているように見えてしまい。アビーの好意そのものが茶番化してしまっているように思う。
『ぼくのエリ』では
エリに愛されようとしている男
エリは、親しみ程度までは抱くけれど、それは愛ではなく、エリと相思相愛になったのはオスカーだけなのである。
このエリと保護者の男とオスカーの関係を分かりやすく(なぜか)ラピュタで説明すると
シータと、ロボット兵とパズーの関係に似ていると思う
シータは、ロボット兵に同情というか、親しみを持ってはいるけれど、パズーが来たらパズーに手を伸ばすのだ。
ロボット兵はパズーにはなれないのだ。

たいしてアビーは、利用するだけしてそのうち乗り換えると言う感じ。
これがエリとアビーの最初の台詞の違いとして現れていて
エリの「友達にはなれないよ、悪いけど」「意味なんてない。そういう顔してたから」
と違いアビーは「友達にはなれない。そうきまっている」
友達にはなれない理由が、エリの場合は、人と吸血鬼だからという程度のものであるのに対して
アビーには、人と吸血鬼である事以上に友達にはなれないという理由がある。
それは、後半の、「友達にはなれないって言ったよ」というセリフにつながっている。
このアビーの言葉は、自分が彼らを利用して乗り換えてゆく事を表しているのだと思う。

この違いが良く現れているのが
『ぼくのエリ』での「悪いが今夜はあの子に合わないでくれ、頼む」と
『モールス』での「もうあの少年に会うな」というセリフ。

エリが、オスカーを好きになっている事を知っていて、それを止められない事も知っている。
だからせめてエリの為に殺人を犯す今夜だけは自分の事だけを見ていてほしいと思っている言葉と
(友人たちが、戻ってきてつるした青年が目を覚ました時の、男の諦念、座り込んだ彼と、静かに盛り上がる音楽が素晴らしい相乗効果を生んでいる。そして部屋に座り込んで、オスカーとモールス信号で会話する事をかろうじて踏みとどまっているエリがさらに良い。)
アビーに常に自分だけを見ていてほしいと思っている言葉。
この違いが、それぞれの男の立場の違いで
つまりそれは、エリの事を愛しているけれど、愛されはしなかった男。と
アビーの事を愛していて、過去には愛されていた男の違いで、

また、それが物語の結末の印象をも異なったものにしている。

最後の旅立ちのシーン。『ぼくのエリ』では、乗客は、彼ら以外にいないけれど
『モールス』では、ほかにも乗客がいて、車掌が切符を確認にまで来る。
(あんな狭い車内で、モールス会話してたら他の乗客が誰か気付くんじゃないかと思ってしまうけれど・・・)
この違いによって、
『僕のエリ』では、二人だけの旅立ちという面が強調されている。
お互いをしか必要としていない。そのような印象である。
オスカーは、母親、父親、どちらからも愛情を受けていて、その愛情を振り切ってエリと旅立つのでその印象はさらに増す。
(『モールス』では周りの関係性が薄くなってしまった為に、それらを振り切ってゆくという感じはしない。)
他に誰も登場しない電車は二人を、一般的な社会から隔絶された世界へと運んでいる。
それは、死に近いかもしれない。
見方によっては、ぼくのエリは、少年が死と出会い死とともに去る。自殺の物語のようにも見える。
オスカーにとっての限りなく美しい死それがエリなのではないかとも・・・。

『モールス』では、列車は彼らを何処かへ運んだりはしないだろう
彼らが行くのは、どこまでも俗世であって
彼らはどこへも行かれないのだと思う
だから、『モールス』は繰り返される物語であって
オーウェンは、協力者の男の過去でもあり、死んだ男、は未来のオーウェンでもある。
ただ、アビーと言う根幹があって、彼らはそれを生かすための歯車のようにふるまう。
それは、創始者が死亡した後もあるシステムを他の人間が存続させてゆく。社会システムに似ている気がする。
いくつもの人間が、あるシステム(国や会社)その名前、看板を残す為に従事してやがて去ってゆく
それは、誰でもいいのだ。アビーを存続させたいという意思のある人間であれば・・・

だから結末は同じように見えて、実は真逆に向かって収束しているように思う。
何処かへ旅立った少年と
結局どこへも行けなかった少年
そんな感じ・・・。
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COMMENT

承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2017/02/26(日) 04:03:05 | | # [ Edit ]
こんにちは^^
コメントありがとうございます。
すごく余韻が残りますよね。私も見終わったとは、なにか何も手がつけられないというか、少し放心状態っぽくなりました。

確かにリメイク版は、単純なホラー映画ですが、あれがあったからぼくのエリの良さを再認識できたとも思っています^^。そういう意味では良かったかなと。
良いと思ってたぼくのエリが、本当に凄いと思いましたから。

いつも好きな物語が終わったときは、すごく寂しい気持ちになります。けれど、ここまで完成されていると、何をつけても蛇足になってしまうのではないかなと思います。いい終わり方でした。すごく余韻が残る。
見た人それぞれに想うものがあって、それがその人の中に残ってゆくなら
それも含めて完成されると思います^^
2013/09/20(金) 12:50:13 | URL | K・K #J77trv3c [ Edit ]
素晴らしい解説
はじめまして。
先日「ぼくのエリ 200歳の少女」を見てインターネットで検索していましたら、あなた様のブログに行き当たりました。そして昨日「モールス」を見て、あなた様の解説が本当に素晴らしいと思いました。「ぼくのエリ」を見て3日経ちますがまだ余韻が抜けません。こんな純粋な「恋」「愛」を描いた作品は久しぶりに見ました。最初は寝っ転がって見ていたのですがどんどん引き込まれていつの間にか身を乗り出し釘付けになっていました。オスカーとエリが美しく、神々しく見え、二人の揺るぎない「絆」を感じました。リメイク版は何かうわっペリだけを描き、「愛」が感じられません。それに重要な「寒さ」を感じる事が出来ません。残念ですね。あなた様のブログの最後の部分が本当に重要です。全くその通りと思いました。続編を見たい気持ちですが、このまま見た人が想像を巡らせるのもいいかもしれませんね。
長文ですみませんでした。
2013/09/18(水) 05:04:54 | URL | タカシ #FxkhobIo [ Edit ]

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